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「安倍一族 敵見ケ森稲荷/前九年探訪」 (参)

「安倍一族 敵見ケ森稲荷/前九年探訪」


『外伝・笑九朗事件綴』 (参)

「安倍一族 敵見ケ森稲荷/前九年探訪」



康平五年【1062】厨川柵を源頼義は取り囲む、九月十五日のことだった。

※敵見ケ森稲荷遠景
敵見ケ森稲荷 前九年⑪


天喜4年【1056】阿久利川の夜襲事件で、主犯の嫌疑をかけられ 父安倍頼時(頼良-永承七年に改名)が庇護するも鎮守府将軍源頼義に聴きいれられず、安倍父子は戦いを避けられぬものと覚悟を決めたのだろう。貞任三十七歳のときである。



さかのぼる四年前、永承七年【1052】 後冷泉天皇の大赦により安倍一族追討令が破綻した事は,源氏にとって憤慨やるせぬものだったろう。一条天皇の皇后上東門院彰子の病気平癒祈願による大赦で恭順し合戦の回避となったが、これは安倍一族の財力で秘密裏に画策されたものと考えたのだろうか。或は自分達を無視して朝廷と繋がっている安倍一族の糸を断ち切らねば将来に遺恨を残す事になろう。坂東武士の棟梁とすれば 陸奥に出兵しこのまま任期を終了すれば、南下政策をとる安倍氏を野放し、また金も領土も手中にできず、朝廷と安倍氏両方からの脅威に怯える事になるだろう。

天喜元年【1053】、安倍氏は亘理(宮城県)の藤原経清と姻戚関係を結び源氏との絆をつよめいいく。このことも苦々しく思ったに違いない。安倍氏は後の阿久利川の当事者藤原光貞にも縁戚関係を求めたかもしれない。

しかし天喜四年【1056】 藤原登任の後任である源頼義が四年の任期終了間じか、阿久利川事件がおき 貞任の処分に納得しないことを理由に、因縁あさからぬ安倍氏を一気に決着をつけ 攻め滅ぼさんとしたのであろう。
血気に逸る貞任を貶(おとし)めて、弱体化を計った東国武士集団源氏の作為的に呷(あお)った行動がみえてくる。怨念の虜になった源氏と安倍氏両雄は 再度陸奥の地に血を呼び込むである。

初戦当時は安倍の勝利が続くが、安倍一族の内紛を画策し寝返りをさせて父安倍頼時(頼良)は、返り忠(寝返り)、欺かれ討たれる。貞任は怒り、源氏にたいし復讐を北辰に誓ったのだろう。
源氏は衣川、黄海と敗れ、地の利ほ得た安部の勝利ともとれるが、それは朝廷にたいするあざとい策ではなかったろうか。朝廷より御旗ならぬ勅撰を得て清原武則を味方に引き入れたのかもしれない。

朝廷内には朝廷の思惑があり、これ以上の源氏の台頭を苦々しくおもっていたのではないか。はたまた蝦夷の首領たる安倍氏に対し黄金、馬、山海の産物など朝廷直轄して管理したいという願望があったのかもしれない。その事は陸奥守任期終了した源氏に対し前九年役の終了後、私怨私闘と決めつけ 源氏ではなく清原武則に所領を任せている。取敢えず追討宣旨を源頼義に与え天秤にかけたのかもしれない。

朝廷との窓口として繋がっていたのは、もしかすると安倍氏一族の宗任ではなかろうか。宗任は一族大半が斬首になったものの、四国伊予へ流されること(後、九州)で生き延びることとなり安倍の血を延命させている。

となると清原武則の立場はといえば、源氏との繋がりを確固たるものにしたいということと、もし安倍氏がこの合戦に負けた場合、血の存続をどこかに留めておこうとしていたのかもしれない。それは後世、藤原経清の妻(貞任の妹)と子(藤原清衡)を清原武則が譲受たことで頷けるのではないか。又、平泉二代目藤原基衡の妻は安倍宗任の妹だとされている。血は続いているのです。

清原武則が参戦後、貞任は敗走を続けたが、それは無駄な戦いを避けたのかもしれないのだ。源氏・清原氏は柵を攻撃しながら空の柵を焼き払い或は兵を残留させて 尚、厨川の柵を目指したのである。
源氏兵力の分散化を計り、時をかせぎ最終の砦である厨川柵の防備を固め立て篭もる、又一方では一族郎党を各地に逃避させようとした貞任の策には、この戦いで自分が死なねば源氏との終結は在り得ないとし思っただろう。反面、源頼義の陸奥守任期切れを朝廷に期待したのかもしれない。

☆彡

【※前九年の役 藤原登任が陸奥守に任命され、逃げ帰り妄言ともとれる報告を朝廷にした後、--永承六年【1051】--源頼義等が討伐のため安倍氏と鬼切部の合戦になる】

☆彡 


少し前になるが、厨川柵の西(或は柵中心にある敵見ケ森稲荷を探訪しました。
昔、根釧地区に十年ほど居住したことがあります。此處にはチャシとよばれる小高い人工の砦らしきものが点在しております。チャシはかなり大きなものから自然を利用したもの、海岸線にもありました。
チャシ自体はもっと後世のものの様ですが、敵見ケ森稲荷は小さい丘ではあり、人工的な小山ではないかと感じながら探索。 周りになにもなければ塔を建ててかなり遠くを見渡せたのではないでしょうか。そう、貞任も西方の飯岡山を凝視していたのかもしれない‥。


敵見ケ森稲荷 前九年①-1-敵見ケ森稲荷 前九年②-敵見ケ森稲荷 前九年③-1

敵見ケ森稲荷 前九年④-敵見ケ森稲荷 前九年⑥-敵見ケ森稲荷 前九年⑦

敵見ケ森稲荷 前九年⑧-敵見ケ森稲荷 前九年⑨-敵見ケ森稲荷 前九年⑩

敵見ケ森稲荷 前九年⑪---------------敵見ケ森稲荷 前九年⑤-1










※あくまでも私的創作である事をお断りしておきます。

次回は周辺の寺社探訪篇です


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「安倍一族終焉の未知之國の地を探訪」後編『   (弐)

「安倍一族終焉の未知之國の地を探訪」後編


『外伝・笑九朗事件綴』 (弐)


※あくまでも私的創作である事をお断りしておきます。

安倍一族はこの地で滅ぶ。

一族の謀反で安倍頼義(頼時)は北方の一族を説諭の途中で討たれて死亡、嫡男の安倍貞任は厨川柵に篭り源氏の抗戦を凌いだ。前回は天皇の后の崩御に恩赦がでて赦免、和睦となったが 今回はその風は吹かなかった。私的な怨恨を懐く源氏は決して容赦はなかったと思われる。うずたかく積まれた木々゛に火を放ち砦は燃え落ちた。おそらく西側の飯岡山に陣を設けた源氏軍は雫石川を渡河し現在の現在の天昌寺・大館方面から攻めたてたのだろうか。

※中堤の図  蛇行する雫石川は左側
中堤の図 模写

現在の上厨川の貞任橋・宗任橋を過ぎ、籾殻を湿地に播いて地面にみせて防御作戦の逸話がのこり 葦のはえた湿地(中堤・大堤)、稲荷町の厨川稲荷神社、権現坂、古川(諸葛川支流/小諸葛川)、木(十)賊川を越えれば小高い丘が厨川柵まで続くのである。

※前九年の丘陵地と厨川柵跡
厨川柵 地図描⑧--厨川柵 模写⑦

※敵見ケ森 後日写真掲載

この辺りは下厨川といっていたところで、東は前九年町の家並みがあり、幾つもの堀跡は現在もあり ひとの背丈より深いものばかりである。この堀が逆に攻め込まれる通路となったのだろうか。狐森神社(敵見山)付近車堤橋から一ノ倉邸裏にも厨川小学校脇まで木賊川(とくさ川-十賊川)の支流の堀があり柵の探訪あとに散遊しました。

※川の堀  上側が北で 南に流れている
風景 前九年 厨川小裏 堀①--風景 前九年 厨川小裏 堀②


壱の続きですが.現在の厨川柵を写真で並べる事にする
※林を抜け 現在は家の間の路地も通過。
14安倍館の柵--15安倍館の柵
※空堀を下る 堀の底は樹海と化し 東側に北上川が微かに見える場所もある
16安倍館の柵--17安倍館の柵
※安倍館遺跡の表示杭 そして旧四号線に出ると案内板に地図と由来が載っている
19安倍館の柵--18-1安倍館の柵
※画像をクイックしてアップすると もしかすれば文字が見えるかもしれない
18-2安倍館の柵

※南部藩時代の柵は右上  ※雫石川と北上川の間一帯が安倍館の丘陵地
古地図③絵図 右上の林--地図 前九年と雫石川

※古地図の柵図
古地図④厨川柵

※堀をこえれば底はもう闇の世界 自分ひとりの世界に入り込む。樹と樹 蔦と雑草 汗まみれである
20安倍館の柵--21安倍館の柵

22安倍館の柵--31-2安倍館の柵

23-2安倍館の柵

23安倍館の柵--

24安倍館の柵--25安倍館の柵

26安倍館の柵--27安倍館の柵

28安倍館の柵--29安倍館の柵

30安倍館の柵--31安倍館の柵

このまま行けばもう北上川に敗戦を覚悟した安倍一族の女達が子供を抱いて身を投げたように、足を滑らし落ちてしまうに違いない。今回は此處までとしよう‥か。


後編了







※写真、ならびに人物・地名はすべて架空のもので本文とは関係ありません。写真はイメージを表現するもので多くは手前のものを使用しておりますが、もしご迷惑をおかけする場合は削除いたしますのでご連絡ください。

☆彡



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「安倍一族終焉の未知之國の地を探訪」前編   (壱)

「安倍一族終焉の未知之國の地を探訪」前編


『外伝・笑九朗事件綴』 (壱)

ここは謎の國 謎の一族 そして謎の地
古地図 日本--

古地図②


「安倍一族終焉の未知之國の地を探訪」
古地図 模写①

※あくまでも私的創作である事をお断りしておきます。

安倍一族を滅ぼした源氏の野望は金を産出する陸奥をわが物にする為であったのではないだろうか。

産金の歴史は、天平十七年/745 、聖武天皇の発願で僧行基(百済系渡来人)は奈良東大寺に廬舎那仏(大仏)建立開始した。大仏には多くの金が使われているが、その金は陸奥小田郡涌谷で大伴一族ともいわれる丸子連(わにのむらじ)が発見したものであった。
天平20年/748 丸子連は黄金山の小さな川で採取した砂金は陸奥守百済王敬福(くだらのこにきし きょうふく)を経由し九百両分の金を朝廷に献上した。(丸子氏は水島之島足という書物あり?)。金発見は國をあげて賞賛され、その後の歴史に多大なる波紋をまきおこした。このことは後の藤原氏、平氏、源氏の抗争の総てに起因しているのでではないだろうか。

丸子連は牡鹿連の姓を賜わり後に上京し次々に官位を拝領し嶋村の島足として君臨する、敬福は上京して転戦。高官職についたのは史実であり、推測ではあるが、もしかすると和名姓を賜ったかもしれない。


また小田郡周辺には「金」の姓をもつ一族がいるが、これらの姓は金を扱ったか、同じ一族郎党なのではないのだろうか。
朝廷は地元の三年の調・庸を免除、小田郡には調・庸を長期間わたり免除という特別な政令を発令したが 後、四人で一両の金を納めさせたのである。
箟岳の西方にある式内社/黄金山神社は彼らの社(やしろ)であり、金売り吉次や長者伝説、金華山など黄金の説話をうむことになるのである。

大伴旅人の息子で、後の陸奥守 万葉歌人の大伴家持は権力抗争にも遭遇したが、黄金大仏のためにあの有名な歌「すめらぎの御代栄えんと東なる 未知之國(みちのくの山)に黄金花咲く」を詠んだ。もし丸子一族と大伴一族が関係あるならますます面白いことになる。

金の発見で聖武天皇(大宝元年/701~天平勝宝8年/756 )は自國で初めて産出した砂金に喜び、年号を天平を天平勝宝と改めたのである。まったく推測だが鍍金の水銀に溶かした金(アマルガム/合金)を塗り、熱で蒸発させると金のみが残る。ところがこの水銀蒸気は猛毒であり なかで作業する者が死んだり、観覧した天皇も中毒になったかもしれない。
とにかく天平勝宝四年(752)に 大仏開眼供養会が盛大に挙行され天平宝字ニ年/758 に完成した。つかわれた金の量はかなりのものだったろう。

藤原氏の時代が訪れ、平氏の台頭。その中でも産金は続けられたのである。
安倍氏が産金に関与した証は謎だが、平泉の藤原氏同様に平氏、源氏、朝廷へと貢物として献上し、かなりの量の金を採取していたと考えるのは推理として面白い。後世の藤原文化の基盤は安倍一族の金による継承があったと思うと愉しい。

さて時代はくだるが、鬼切部の戦いから始り、大赦、和解、阿久利川事件、陸奥の雄たる安倍一族は源頼義との戦いを再度決意して衣川の柵に防備を固めた。

初戦が鬼切部の戦いで鳴子の辺りまで南に領土を拡大した安倍一族の勢力範囲ということになる。安倍の姻戚関係は頼時の娘婿の伊具郡司平永衡【阿武隈川丸森町付近】、そして亘理郡司藤原経清【阿武隈川河口南岸】であり、その勢力図は思ったより南にあったのだろう。
後年、文治5年/1189 現在の福島県の北にある要所、厚樫山(阿津賀志山)戦いの大木戸において防備を固めた藤原氏の勢力範囲を窺がい知ることができる。

安倍一族は、神出鬼没のごとく奇襲を繰返し善戦したが、国府多賀城を出立した源頼義に後退してゆくのである。源頼義の北征は時代前後する部分もありますが北方に設置された柵を順に並べると【河崎柵(川崎)⇒黄海(川)戦⇒⇒小松柵8/17⇒瀬原⇒大麻生野⇒衣川柵(館)⇒鳥見(鳥海)柵9/11⇒黒沢尻柵9/13⇒鶴脛柵⇒比与鳥柵⇒厨川(栗谷川?)柵/嫗戸柵9/6】 安倍一族が滅ぶのに小松柵から厨川柵までほぼ一ヶ月である。

後退して北の最後の砦(柵)である厨川の柵(盛岡安倍館町付近)へと退くと背水の陣を敷くことになるがそれは時間の問題であった。

本編『笑九朗事件綴』の根底にかかわる話になるので詳細は後に記す事で除くが、今回は物語の為に久しぶりに安倍館町を探訪してみる事にしました。

※まずは安倍館の文字から見てみよう。公民館の見事な文字ですね。
阿部、安部、阿倍、安陪という苗字は数あれど阿倍の語感が好きですね。安比もね‥
01安倍館の柵

※次は安倍館稲荷神社を観る  
02安倍館の柵--03安倍館の柵
※小さな鳥居が右脇にある。堀が深く草、樹木が生い茂り北上川が葉の隙間から見える
04安倍館の柵--05安倍館の柵
※堀の急な細道0降りて登ると 厨川八幡宮(右)
06安倍館の柵--07安倍館の柵
※宮を過ぎるとまた堀 北上川に切り込んでいる
08安倍館の柵--09安倍館の柵

久しぶりに徒歩で柵の堀跡も見ながらいかに堅固な柵だったかを確信した。
東側は北上川で水面までの高さは源氏を攻め込むにはかなり問題がある地形である。最近の説はこの地が「姥戸(うばと)の柵」といわれているとの事だが、この柵の地形は西の雫石川が天昌寺付近から夕顔瀬橋辺りまでくい込み 小さな山か連なっている。地図をみてこれらが総て跡とみるとまた面白いのです。

八幡宮鳥居と注連縄
10安倍館の柵

謎の石畳(下図)-碑とおもわれるが
近くのかたが この石は石巻にある石と同じものだと説明された  すると硯石か 板碑か
裏が見たい 文字が描かれているかもしれない
簡単に起こせるものではないぞ 大きさに驚愕する
タイヤを置いた跡と比較してみればわかりますぞ 
11-2安倍館の柵
※畳石 畳五畳はあるかなぁ  とにんく勝手に想像してしまう悪い癖がでる
上に載ってみるが揺るぎがない   
12安倍館の柵

※右上に厨川柵跡    隣りの図は飯岡山(左下側)
地図 安倍館-右上--地図 飯岡山-左下

まだまだ図あるので次回へ

前編 了











☆彡

※写真、ならびに人物・地名はすべて架空のもので本文とは関係ありません。写真はイメージを表現するもので多くは手前のものを使用しておりますが、もしご迷惑をおかけする場合は削除いたしますのでご連絡ください。
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【※】-半世紀分の散らばした気侭綴ゑ-

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