九六の匣

さまざま詰めこんだ匣

『奇妙な落款』(14)

『奇妙な落款』(14)


私は自分と尼子一族の過去を話すのが苦手である。

この安倍と名乗る老人が経験した法螺とも思える噺を一概に嘘とも決めつけられず、又あの謎の青年が何故安倍という男といるのか謎が深まるばかり。そして、何故か自分の過去と係わりがあるような言葉がとびだした。

いかにも私があの古本屋に行ったのが必然であるかのような展開である。

そのような訳で話さざるえない状態になった。
確かに私の尼子一族の生地は東北の山形で、霊山として有名な出羽三山のひとつ羽黒山から東南、奥まったところにあるひっそりとした辰谷沢である。
この地域で、まずお話しなければならないのは酒田三十六人衆と謎の尼についてであろう。

ところで朝廷と源氏の東北への執拗なるかかわりは歴史が語っている。
田村麻呂の阿弖流為討伐に始まり、安倍一族と藤原経清を撃ち滅ぼし、残った安倍一族は各地への逃亡生活を余儀なくされます。
時代は下り、経清の子孫でもある藤原一族に対しても覇権を陰惨な爭いで奪いとってしまいます。

なかでも直系の者は大半処刑にあい、ごく僅かな者が散り散りに生き延びたと聞き及んでいます。秀衡の血縁ともいわれる女御が尼となり虚空蔵菩薩の庇護のもと山形の山深くに落ちのびたともいわれる伝説があり、それが私の祖先と謂われておりますがあくまでも言伝えでございます。
その尼の名を徳尼と申し童子をつれておったと聞き及んでいます。彼女らを警護し庇護したのが酒田三十六人衆ともいわれ、その後の酒田の海運業を始めとするあらゆる商業に従事してきたのです。
徳姫(尼)が連れてきた童子は不可思議な呪術を会得しており酒田衆の前途を占ったともいいます。又、徳尼は歳をとらず生きながらえたともいわれている。その一族が尼子の一族であり私の家の古文書にしるされております。


【途中-筆置】九六


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『奇妙な落款』(13)

『奇妙な落款』(13)



 儂はこの世にあるものに凡てが理屈で解決出来うるとは思ってはいない、しかし目の前に存在する事象にたいし即時に明快な答えをだせる知識も限られているのだ。

ただ過去に書物から知りえた中に、『太歳(たいさい)』なる不思議なものがあるというがぁ。
その形状があまりにも目の前にある謎の茸に酷似しているのだ。
その太歳というものは、秘録によると不老不死の薬として用いたともあり、古来より探して簡単に得られるというものではなく空想の産物に過ぎないともいわれてたのだ。
それにしても仮に太歳が存在したとしても、出逢えるのは偶然か奇蹟にも近いだろうしな。
過去に他国から不老不死の薬を求めこの国に渡来したものもいたという。諸説あるが、日本の御伽噺にも仙薬を求めて旅したものが書かれてある。しかし結末はいずれも破綻することになってしまう。

だが本当に効く仙薬をみつけたとしたら、その者は口を閉ざし目立たぬように息をしのばせて生きるしかないのであろう。なんせ齢をとらぬのだからなぁ。

世に知りたるもの微々なり、奇異なること少なかるべし。
知りえて尚、得心せざるは常なり。
知らざりて世に騙る者多きかること数多(あまた)あり。
古(いにしえ)より伝わりし事ありて、奇独ならずして徒(いたずら)に理(ことわり)を踏みて禁を侵せば災いを招きいれん。恐れよ、凡ては三猿なるがごとく振舞うが肝心なり。

男は呪文のように呟く。

顔をあげ、こちらを向くと
「ところでなぁ、お前さんの名は確か…尼子(あまこ)とかいったなぁ」
「な・なんで私の苗字を知っているんですか」
突然のことで声が詰まった。

「なぁーに、お前さん 以前に儂のところへ本を売りにきただろう」
「ああ、そういえばぁ」
「本に名を書いてあったのを忘れているようだな」
「そうかぁ、一度金に困って持ち込みましたね」
「それにお前は越後以北か、それも酒田あたりの出身だろう」
「本に住所や本籍なんか書いていないはず…」
「訛りじゃよ、いくら隠してもでてくるしな、それから…」
「今度は私の詮索ですか、それよりさっきの噺のつづきを」
少しばかりムッとした口調でかえした。

「匂いじゃよ、お前さんには何か儂と同じ血の匂いがするんじゃ」
「訛りだとか、匂いだとか 今度は血ですか」
「そうだ、儂は安倍というのだがなにか気にならぬか」
「光源堂さん、私と今まで話したことと何か関係があるんですか」
「この前お前さんが店に来た時に本をおみせましたなぁ」
「はい、片品龍一郎という天才作家の処女作を…」
「その本を儂から受取って開いたときに何か異様に思わなかったかな」
「白い、光沢のある表紙…それからなにか生きているような…」
「それじゃよ、あの本はひとを選ぶんじゃよ」
「本がひとを?…選ぶぅ」




【つづく】九六




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『奇妙な落款』(12)

『奇妙な落款』(12)


「お~い」
口腔が乾き、干からびた声で子供を呼んだ。
意識だけははっきりとしているが、なにか言葉の勢いを失っているようだ。
儂は何日も眠っていたのだろうか…皮膚が弛んでいる。

何度か声を掛けると裸の子供はやっと立ち止まった。こちらを振り向いた子供は儂を警戒するでもなく目の前にやってきて膝を押え屈んだ。

「お前さんの名はなんというんだ?」
本当はお前は何者だと問い糺したかったがそうもいくまいと優しく声をかけた。
やっと傍にやって来た子供をまじまじとみることができた。

「有難うよ、俺を助けてくれたんだろう」
声を更に柔めて手を伸ばした。すると急に後ずさりして顔を強張らせた。
やはり、子供は言葉ひとつとして発する事はなかった。
こいつとどうやって意志疎通を図ろうか暫し考え、右手を自分の口にあてていかにも空腹だという仕種をしてみた。

すると、首を傾げ、そのあとに笑ったかのようにな仕草をした。
「な・なんだぁ」
子供の唇は大きく歪んで、まるで耳の近くまで三日月状に広がったのだ。
この子供の屈託ない表現なのだろうか、
でも、それはまるでいい伝えに聴くところの河童のような顔立ちではないかと思うほどの変容であった。


---------------- 

「そ・それじゃあ!もしかすると…」
噺の腰を折らんでくれ…とばかりに私の眼をみつめ、いかにもまだ話の途中だというかのように睨んだ。

彼の話の続きを聴いて、喉の奥に呑みこむ唾が店内に響くかと感じた。
それは、
「なぜ儂が子供という言葉をつかっているか判るかな。普通なら子供といわず、男の子とか女の子と表現するだろう…」

---------------- 

子供は茸の中心に指を突然探るようにいれて、ひかる胞子と一緒に乳白色の肉塊状のものをさしだした。
儂は受取ながらこれは食べ物だと理解して、恐る恐る口に放り込んだ。
その発酵した甘酸っぱい味が舌を擽(くすぐ)る…牛の乳を発酵させたものより濃く、とにかく美味なのだ。
子供に食べ物を貰った感謝の言葉を返そうとした。

…その時、儂は初めて子供の不思議な特徴に気づいた。
なにか普通でないカタチ

奴は…
両○具有だった…。

それからもうひとつ、あの茸の事だが見た目は人間の皮膚のように湿潤で柔らかそうに見えるのだが、実は思ったより硬質であること、襞(ひだ)はなく上部中心部に5センチ程度の四角形紋様が刻まれている。
紋様の周りには、ミミズがのたくった文字状のモノが描かれている。
胞子は子供が指をいれた四角形の中心の切れ目からだけ放散しているようだ。その度に微妙に収縮するため文字が変化していて連続して文字が読めるようにみえる。しかし、よくみると四角形は濃い朱色に染まり、書画や掛軸などにみられる大印を捺した『落款』にも似ている気がしてきた。

この茸と子供の正体はなんなのだろう、そして周りの木乃伊、疑問だけが頭の中を駆け廻った。


【つづく】九六

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『奇妙な落款』(11)

『奇妙な落款』(11)


 儂は子供に近づいて驚いた。何故かといえば行燈の灯りだと思ったのが違っていたからだ。両手に抱えたものは大きな茸であり、それが発光しているだ。

茸が光るといえば、儂が幼い頃に母方の田舎に行ったときのことじゃ。外にある厠に向った時にな、夜の山が青白く発光している不可思議な現象を見たことがある。それはこの世のものとは思えない、死人(しびと)の魂が集まり演舞しているように感じた。
朝になってな、それを言うと 婆があそこに行ってはなんねぇぞ、仏の『オワタリ(和太利)様』じゃと諭されたが、好奇心から独りで山に分け入った、するとそこには毒をあるツキヨダケ(月夜茸)の群生が辺り一面に広がって真昼の陰のような状態で緑白色に発光していたのである。
毒茸の香りが自分を惑わすほど強烈で衝撃的な事で、魂の逝く彼岸とはこのようなものだと思った。その後の記憶はなく、探索にきた若者にフラフラと歩いていたのを発見されたんだ。

この茸は巨大なサルノコシカケのような
カサから乳白色の淡い光源を発する茸をかざして、裸の子供が儂を導いているらしいのだ。蔵の中は茸の胞子が気儘に浮遊しはじめて飛びかい、明るさを増すと半闇の中に奇々怪々な物が氾濫しているらしいのが判りはじめた。
「なんだ、この黒い干(ひ)からびたものは……、うわっ…」
突然、何かを踏みつけてしまった。

眼を近づけて凝視すると、
それはなにか獣の燻製みたいなものだが、おそらく猿が寝そべったような木乃伊(ミイラ)化した物体であった。それが何体も重なってある訳だから驚くのはあたりまえだろう。

何がなんだか理解できない事が続くと、人間というものは自然と口が歪み笑ってしまのだろうか、おそらくよそ様がみていたら狂ったような顔に思うはずじゃ。へなへなと蔵の床にへたばったように腰が砕けおちた。

裸体の子供は更に跳ねては光の胞子を撒き散らしている。

両手の肘を後ろ側の床につき、半身が寝そべった形で子供の踊るような仕種を幻想のように見詰めた。そうそれはまるで蛾が行先を決めずにフワ~っと鱗粉を撒散らしているようだった。

頭の中で「蛾っ?」という漢字がうかんだのだった。迷う蛾、舞う蛾……マヨイガ…
その言葉は地図の地名にも確かあったぞ、あれは『マイガ岳』だったな。
それにこの地方には奇妙な言い伝えやが民話が数多いなかで『マヨイガ』というものがある。

『マヨイガ』とは…人里離れた山中に在りて立派な家のことなり。訪ねても人の気配なし、問うても誰もおらず。だからといって家財などを欲にかられて持出しすれば祟るべし。かかわることあたわずこと。
以前に土地の婆さまから聴いて、それに係わった者のことなどもノートに書き記していた。

もしかすると、儂の顔を被っていたのもこの茸なのだろうか。






【つづく】九六
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『奇妙な落款』(10)

『奇妙な落款』(10)


「…、…、」
「………すぅぐわーっ」
人間が目覚めるという事は、浮遊する上下感のない死の淵から抜け出すようなもので、暗い海の中から海面を目指して出たとたんおもいっきり息を吸い込む瞬間ににている。それは解き放たれた充足感というよりは新鮮な空気を補給できずにいた切迫感ともいえるかもしれない。
記憶はないが母体から生を受けたあの泣き声こそが生存への執着する目覚めなのだ。

儂があの地で目覚めたのも、何故かそのような感覚だった。

ただ体が異様に重い、ひとつとして自由が効かなかった。
理由はすぐにも理解できた。なんと首から下は土中に仰向けのまま埋まっていたのだからである。唇と鼻穴以外、顔面には不思議な布のようなものが覆ってあるのだ。

目がみえない、首を振る、指が微妙に動く、足先は無感覚か…
声を唸るように喉から絞り出す、これらが頭の中で緩やかに連動する。
とにかく動かねばならないという思考がはたらく、何度も筋肉の収縮をかさねた末に隙間ができた。これだけでこの状況下では重労働だと知った。

今度は血液が緩やかに循環し始め、思考回路が活性化する。
この状態は自ら望んではいないもので普通に考えると土葬に近いのかもしれない。

気配がする。あの子供だ。何をする気だ。
突然顔面を被ったものが取りはずされた。
「い・いきて・生きてるんだぞ」
眩い光が眼底まで届く。

儂を覗き込んだ子供が微笑んでいる。

暫らく経つと子供は儂を覆った土を取り払っている。やっと体の自由がきくようになった。実際に儂の体を覆った土がそれほどではない量であり、それが不思議なもので土圧と体力が落ちたせいか簡単に抜け出せなかったのだろうと悟る。

よくみてみると、足の腫れはなくなっていた。
ということは何日間かはこの状態だったということになり、この子供は土中に埋めるという何かしらの民間治療で儂を助けたことになる。

ふらつきながら、子供の跡を前のめりで歩いていくと、小走りに蔵の中に消えていった。開けっぱなしの蔵の入口で扉に両手を圧し掛かるようにつき、中を窺ったが暗すぎて何もみえてこない。どうしてものかと横木に腰をかけていると中から行燈の灯のようなものが揺らめいてこちらにやってくる。

「うーうー」妙な声だけが聞えてくる。
「なんだ、入ってこいというのか」
重い尻をなんとかあげて一歩づつ蔵の内部へとあゆんだ。

入ると外部とは違う冷気が首筋にかかってくる。
蔵というものは一旦もぐり込むとその大きさに驚くものだと思い、行燈の灯りの方向へ数歩すすんでは、立ち止まると、灯りは奥の方へと進んでいく。足元も覚束ないのは病み上りだからだが、やけに照明が暗いせいもある。自分の居場所さえ何も見えない闇が周りから這いずってくる気がする。

「おい、いい加減にしてくれよ、体がまだ回復していないんだ」
だが何の返答もないまま灯りが動くのをやめた。

しかしぼんやりとだが、眼が闇に慣れてきたのか周りが見えてきた。


【つづく】九六



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『奇妙な落款』(9)

『奇妙な落款』(9)



 縄に吊り下げられた篭が地面に降りると子供はその中に入ったものを取り出し始めた。
私はそれを横目で見ながらも、上空に向かって
「おーい、そこの人を~」
と大声で再び叫んだがなんの反応もない。
もしかすれば儂をみかけた里人が心配して縄をおろしてきたのかもしれないと感じたからだ。しかしこの縄は私の体を引き上げるには心もとない。この子だって途中で千切れてしまうに違いない縄なのだ。もし引き上げるために使用するなら縄ではなく、綱でなくては適わない。それにあの篭に入っていたものをみると食料みたいなものだ。
その食料を貪り食う子供をみると、お盆の中に三角錐に盛られた飯と干からびた魚が数本入っており、脇に神社などにみられる幣があり護符のような文字が書かれてある。
「なんだこのお供えみたいな妙な御膳は…」
何故上の人間は儂の問いにこたえようとしないのだ。

おもいっきり縄を引張った。反応はなく、手から3メートルあたりでブチッとばかりに切れた。もともと切れるように細工してあったのではないかという疑問が湧いてきた。
子供を引き揚げるのでもなく、私を助ける訳でもない。強いていえばここから出さない工夫ではないかと結論づけた。

この子供は一体いつからここにいるのだ。まるでこの状態は、岩穴に幽閉されているのではないだろうか。
暫くすると縄はスルスルと切れたまま引き揚げられていく。

「助けてくれ~、お~い。誰かきこえないのか~」
言葉は空しく岩肌に吸い込まれていく。

子供はひとしきり食べ終わるや、飯を両手ですくい無表情のまま儂にさしだした。
目でこれを食べろと言っているようだ。

そういえば儂も昨日から何も口にしていない。両手を差し出すと飯粒を擦り付けるように手にのせた。
もち米が交っているらしく甘い味が口中にひろがった。米の色と味が、炊くときに醤油を垂らしているらい香り飯で、地方で不祝儀にだされるもののようである。小豆の入ったオコワ、つまり赤米などを使用した祝い膳とは違っている。
次に干した魚を差した出された。
よくみると海でとれるグロテスクな表情のオコゼ(虎魚)というものにちがいない。形は鮟鱇にも似ているが背びれに毒針を有している。こちらではカジカと云われるものだろう。だからといって海が近いという事でもないはずだ。この魚を奉納する習わしは、よく『山神信仰』にあるのを思い出した。

魚を口で噛み解しながら、民間の聴取り調査に常時持ち歩いている簡易地図を胸ポケットから取り出し広げる。
当時の地図は地図と言っても名前だけで、それほどまともな地名が詳しく記されてあるものではない。それにこの辺りは森林のような地図上の標記なのである。

主だった地名や山の名前がカタカナで表記されている地図の中に、『マイガ岳』という文字がなぜか気になった。どうみても北西に進路をとっていたのでこの辺りが現在地になるだろうと鉛筆で標をつける。
もしこの地図の地点であるなら、入ってきた裂け目から脱出して坂をのぼれば帰路につくことができるだろぅ。

しかし儂は、息が荒くなり、額から脂汗が浮き出て滴りおちる状態だった。
子供が怪訝そうな顔で儂を方をみている。

原因が捻挫だけでなく、傷口から侵入した雑菌に侵され、足全体が真っ赤に腫れあがってせいだろう。

意識が薄れていく中、これでは暫くは歩行困難になるだろうし、いまいる場所が正確に判断できなければそう易々と人家まで辿りつく事は無理だろう。

とにかく、今は体を休めることが肝心なのだ。
危険を犯すくらいならここにいた方が懸命だろうと自分に言いきかせようとした。

意識が遠くなるなかで、何故あの子供は裂け目を独りで抜けていかなかったのだろう…等々、懐疑的になった自分がいた。

高熱のためか、グルグルと景色がプリズムのように発光しまわりはじめた。
意識がとおのいていく…
このまま眼が…覚めないかも…

子供が奇声を発して蔵のほうへと駆けだした映像を最後に糸がきれた…。




【つづく】九六


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『奇妙な落款』(8)

『奇妙な落款』(8)



さて、突然だが
男の名は安倍というらしい。敢えて聴かなかったのには理由がある。
それは、こちらから聞きだした訳ではないが、古書店の名前が『安倍光源堂』となっていたからで、まったくの当てずっぽうでもなかったのだ。

それに、この男は今ここで私と向き合って酒を呑んではいるが、それほど知人というほどの深い関係ではないのは判って頂けるとおもう。それに客である私の名前だって知るはずがないだろう。

つい先ほどまでは古書店の店主と本が好きな客の関係に過ぎなかった。それが、古書店に主と同居している謎の痩せた男が原因で、ここでこの男の話を神妙な気分で拝聴しているのは、間違いない事実なのだから…。

男は額に手をあて
「儂が原因なんだろう…」
これからここで話すことは口外しないと念をいれて言葉をつよくした。

さて男の噺の続きだが…。
磐の裂け目から入った彼は朝になるまで垂直にそそり立つ磐を背に眠ったという。

相も変わらずゆっくりと過去を思い出すかのように語りだした。


儂は眼が覚めて、この場所の状況をなんとか把握しようとした。
三十メートルもありそうな岩壁の遥か上方から、いまいる場所の周辺に大きなおぼろげな輪をつくっている。だが暗いわけでもなく霞がかった風情まである。
秋も深く、この季節は厳しいはずなのだが、まるで春の陽光につつまれて生暖かい心地よさが伝わってくる。

ここは縦穴の中だと自分に言いきかせ、よろけながらも背筋を伸ばした。やはりあの斜面を転がったせいで節々が悲鳴をあげはじめる。
立った位置から土蔵に目をやれば、緑の水藻がゆっくりうねる小さな川があり、軽やかな水音さえ聴こえ、その向こうの蔵は一段高く土盛りがされて建っていらしい。周りを溝に囲まれ清水がめぐらされている。

手で水をすくい口に含むと妙に甘く冷たい。頬に水をかけながら顔をあげると、何かがいるのに気付いた。
「誰かいるのか?」
眼をこすりながら蔵の端をみると…、そこには茶色の髪が肩まである子供らしきものが、こちらを見詰めているのだ。


どうしてこんな洞穴に子供がいるのか理解に苦しむが、おそらく土地の子供が遊び場にしていたのかもしれないと、手をふり声をかけた。
「おーい、君~」
何故か怯えているのか怪訝そうな顔つきで見詰めている。
儂が足を引き摺りながら一歩前にでると、今度は怯えたのかのように物陰に隠れる。
辺りを見渡しても、どうも彼ひとりだけらしい。
何も怖がることはないと諭すように言うが一向に埒があかない。

まあ人がいるという事は近くに人里があるに違いないと安堵したせいもあり、腫れて膨らんだ足を労りながらゆっくりと石に腰をおろした。
やっとというか、自分が泥にまみれで擦り傷から血が滲んでいるのに気付く。これでは子供からみたら鬼のような形相だと、驚くのはあたり前だろう。
移動して小川に入り、水に体をなげだした。

衣服を脱いで水で浸し、裸になって体も同時に洗い流した。
服を絞っていると、背後でケラケラと笑う声がしたので振り返ると、いつまにか子供が手の届く傍まできていたのだ。めをあわせてじっくり観察すると、その子供も裸で、髪は上空の光を浴びて金色に輝いている。

この地方には河童という伝説の生き物がいると云われているが別に甲羅を背負っている訳でもない。痩せこけたようにも見えるが普通の子供の顔立ちをしている。河童というよりは、天使とか強いていうなら、座敷童といった表現が正しいかもしれないと思えた。

「なにをしているんだい」
という問いかけにも返ってくる言葉はない、首を傾(かし)げたり、頷いたりまるで儂を弄んでいるかのようだ。ただ時折みせる鋭くなる目付がかなり気になった程度である。

突然、子供が走り始めた。磐穴の上空を見詰めて何かを待っているようにもみえる。そして暫くすると、両手を高く掲げたその先にスルスルと縄状のものが降りてくるのがみえてきた。

どうやら縄の先には竹で編んだ篭が結んであるらしい…。

儂は駆けより大声で叫んだ。



【つづく】九六
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『奇妙な落款』(7)

『奇妙な落款』(7)



ガラス戸を開けると客はなく
居酒屋のカウンターの一番奥になだれ込んだ。

「いらっしゃい、風ぇすごいねぇ」
焼き鳥屋の店主は型通り挨拶をするものの二人の来客に怪訝そうな素振りであった。
「ビールをくれっ」
どうも私たちの様子がいつもとは違ってみえたのだろう。コップを差し出しながら
「なにかあったのかい?」
コップを持つ手が震えている。
私は苛(いら)つきながら
「おやじ、包帯かサラシはないかい。この人が転んじゃてぇさ」
「そいつはてぃへんだ、まっとくれ」
事の次第を店には告げるつもりはもうとうないし、この古本屋の男だってのぞまないだろう。

壁際の板は焼き鳥の脂で変色してベトついてくいる。
まったく衛生的とはいえないが先ほどまでの恐怖とまったく違う次元に飛び込んだみたいだ。

「角の街灯が切れちまったから、隣組の班長さんに替えるように言っとくから。
足元を気をつけないとな」と言いながらサラシを差し出した。

「あれっあんたあそこの本屋じぁねぇか」
男の口は重かった。
黙ったまま顔を伏せて私の治療とはいえぬ処置を受け入れている。

「ひとつ聴いていいかい」
「……」
「あの男とあんたの関係は親子じぁないのか」
「…男じぁねぇ、それに親子でもねぇ」
「一体、あいつは…」
私の言葉を閉ざすように呟くように語りだした。
「まず聴け……」次に
ビールをひと口含むと感がきわまったのか
「…嗚呼、何十年ぶりの酒だぁ」
「何十年って、なにか酒は止めていたのか」

つづけて硝子コップの麦汁をイッキに呑み干し唇と喉が潤うと、言葉がではじめた。



これから話す奇妙なことは、彼の言葉で記述することになる。

…そうだな…あれはもう数十年も前になるかな。
もともと民族学に傾斜し、学問に没頭していた時期がずっと続いていてな、
東京の偉い先生の指導もあって、東北地方の言葉や風習・伝説などを調査する事になり、儂も同行することになった。
仕事といえば、いった矢先の部落などで聞き取り調査をし、筆で書取りしてまとまると東京へ手紙で送る。
そんなところだ。

場所はといえば、宮城県を過ぎて岩手県にはいり、沿岸部から虱潰しに調査を開始した。
最初は学芸員もいてかなりの員数だったなぁ。血気盛んだったしなぁ。

ところが一年も過ぎて、ひとり減りふたり減りして最後には儂ひとりになってしまった。まあ家族持ちや病に倒れたものもいたが、給金が少ないのが困りもので、生活もままならなかったんだろうね。

儂は独りになっても山林を抜け、険しき山々を探索して周っていたが、冬が近くなったころでまだ紅葉は終わっていなかったなぁ。
郷からかなりの山奥で夜になり迷ってしまったのだよ。こんなところじゃ山犬か狼にでも出逢ったら大変だと、沢に沿って歩くのを止めて岳に登れば郷灯りも拝めるだろうと、急な斜面を何度も転げながら尾根に向かったんじゃ。

しかし何度目かの挑戦で力果ててしまい、藪の中を落ちてしまった。
折ってはいなかったが捻挫のような痛みがでて、それでも這いずりながら一夜を過ごせる岩窟を探した。火だけはおこせたが寒さを凌ぐにはきついものがあった。

ところがだな、岩窟の奥から妙に微かだが生暖かい風がやってくる。温泉かなにか湧いているのかと思い中に岩壁に寄りかかりながら、狭い裂け目を二十メートルほど潜り込んで…。やっとくぐり終えたら、突然ひらかれた場所におどりでたのだよ。

…お前は、六甲山にある『石の宝殿』というのを知っているか。周囲が岩の壁で真ん中に四角い大磐があるやつだよ。
ただ『石の宝殿』と違うのは、中央に巨大な磐でなくお宮みたいな土蔵があったということなんだ。

当然、自分の眼を疑ったさぁ。
儂は暫く痛さをを忘れ、その蔵と四角く囲まれた岩天井の星々を見ていたのを想い出す。



彼の不思議な話はそれだけでは終わらなかったのだ。


【つづく】九六
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九六綺譚 改定版『俄雨の鬼』

九六綺譚 改定版『俄雨の鬼』



「そうさねぇ‥鳩渓(きゅうけい)さん」

と口火をきったこの男、御殿医でもござんしてな、ちょいと年下ですが俗にいうところの刎頚の友でありまして、なかなの才のある奴なんでございます。

誘って立話もなんだということで、まずは眞昼間から何か肴に一杯ひっかけましょうやと書上げた浄瑠璃の戯作を片手に ちょいと立寄った茶屋のこと…。

「あっしはね、あんたの鳩渓の鳩(きゅう)の左を戴いて号を九(く)何がしと将来は名乗ろうと思ってやすよ。つまり一字拝領、もしくは偏諱(へんき)ってやつですよ」

おやおやいいのかい、あっしみたいなモノの名をつかって、などと思うが素っ気なく
「勝手につかったらいいやねぇ。そんなモンでよけりゃあ熨斗つけてぇもってきなぁ‥」

「じゃあ、これから九っの幸せって事で、幸をつけて号を九幸(くさち)呼んでくださいなぁ」
「おっと九幸ねぇ、いいんじぁないか がってん承知の助」

ところで、あとで九幸(くさち)とは何かと問いますと、
こんな平和な日本という江戸に住み、色々な人々と長く付合い、まあ程々の銭、飢えもせず、できればぁチョイト名を残し錦を飾り、子をなしてねぇ 日々元気に余生を暮らしたいなぁってことだなんていいやがる。

まったく欲だらけじゃねえのか、煩悩を捨てな-っなんて、ひとの事を言える身分でもねぇか。
でもなんですよ、私を慕い持ち上げてくれる可愛い奴なんですよ。

「田沼の旦那は口ばっかしですねぇ」
「金は渋るが口は出す、世の中そんなもんだよ」
「しかしですよ鳩渓さん、湯島の万物薬品会の見世物屋はけっこうお金が懸かるんでしょうね」
「そりゃあいっちゃーおしめいよ。かかるもなにも出ていく一方さぁ。…それからよぅ佐竹の殿さんが招いて下さるって山師みたいな話もあってね。えーなんだっけ、く・九幸(くさち)さんよ。この浄瑠璃本が売れりゃあ幾らかの足しになるってことだよ」

九幸(くさち)はそれを聴きまして小指と親指を振り回し、
「あれれ、またあの方に貢ぐなんてぇことに‥」
「そりゃあ、俺の甲斐性だ、男好きなのはしかたねぇ 性(さが)なんだよぅ昔から」
「あの歌舞伎役者との仲はどうなるんですかねぇ?」
「金の切れ目が! なんとやらぁってこともあらーな」

暫し噺が弾みまして
九幸はしゃわしゃわと扇子の香を振りまきます。
こんな勝手なことをぬかしていますと、やおら空がかき曇りましてな、
途端にザァーザーとばかりに俄雨ぇ。

「おやおや 降り出しましたね、これじゃあ動きがとれませんよねぇ」
「困ったねぇ、戯作綴りを入れるあぶら紙を携えてこなかったよ」
ふたりが互いに顔を見合わせていますと、

茶屋前の通りから、体ひとつで前裾を押え、我々ふたりのいる格子前の軒下におなごが駆け込んできた。
俄雨にそれほど慌てる様子でももなく
「ちょいと、失礼して暫し軒下をお借りいたしますよ」
とばかりに店の亭主に声をとばす。

-いいねぇ、歳の頃30歳(みそじ)すぎ、女(おなご)の濡れ姿は-

鬼も十八、番茶も出花と申しますが、この歳辺りが膏のってなんとも言えません。

なんとも小粋な身なり、ほれ、どこそこの清元か常磐津のお師匠さんじぁねえのかい。
ほれほれ肩から湯気がたってるじぁありませんか、ちょいとばっかしさぁ雨の滴が浴衣をぬらし肌の白き温もりがほどよく伝わってきます。

ピカッ…!!

雷光が煌き、ごろごろ‥どぉーん っとおちますと、首あたりや襟足のおくり毛が光の中で金色に耀いていたとおもいねぇ。きょうび江戸の鳥居一門の錦絵を思い出してごらんなさいよ、いいもんだねぇ。

一杯ひっかけたふたりが、おなご談議に鶯泊まりてさかせぇ華ぁ‥という具合‥

小粋につんとした鼻筋、楳(梅)の紅さす唇、頬白粉にあの黒子、喉もとから首筋にそっと押さえた手拭(てぬぐい)の指がキュッとしなりましてな、
男というものはそんな些細な仕種に艶気を感じ、よからぬことをしでかすもんでしょうなぁ。

まあ普段なら、ちょっいとした思わせ振りな仕種なんかで男衆の気をそそられる、まあ、どちらにせよ男衆を誘う手練手管でもあることにちげえねえ‥
などと思いつつもみてしまいます。
浴衣にしたり落ちる滴、下駄を片足あげて、小粋に濡れ手拭の艶っぽい事といったらたまりませんでなぁ。

「鳩渓(きゅうけい)さん。いいね、果報は寝て待て、格子冥利につきますなぁ」
九幸(くさち)は扇子をパチリと立てて声まで潜めては向かってにんまりとする。

「ちょいと艶っぽ過ぎやしないかい」

店の主人が我々ふたりとおなごを見渡しながら
「そこの方、軒下じゃあなんだから、戸が開いておりやすよ。中におへんなせぇ」
女はその声が聞えたのか膝を斜めにおり、小首やや傾げては
「ありがとうござます。ここで結構でございます」
ってなことをいいましてな、なかなか奥までへぇてこねんでございます。

すると九幸(くさち)が身を乗り出して
「格子越しとは逆でございやすが、そこなるは破れ店(たな)の軒、滴がかかっておりますよ」

九幸(くさち)とて、難儀をしているおなごが雨の餌食ではと言葉をかけたのだが、
この男はどうも人間の骨格とか肉付きに興味があるらしく…。

それじゃあ九幸(くさち)に恩でも売って加勢しておくかと、
「どうか中に入っておくれでないか、そこじゃ撥ねた雨が浴衣(べべ)にも下駄にもかかりあすよ」

「‥そこまで言って頂けるのなら、ひと雨の間だけお邪魔させていただきます」と
か細い声が どこかがキュットなるんですなぁ。
ついでに九幸(くさち)がもう一押し、
「まあ何にもねえ店(たな)ですがねぇ下駄を脱ぎ拭いて乾かしたらよろしいかと‥」

ここまで言ったらおいおい店の主人(おやじ)がいやな顔をするんじぁねえの。

「九幸(くさち)さん、あんたもなかなかのご気遣いでございますね」
「鳩渓(きゅうけい)さん雨が悪(あ)しですよ、わたしゃあ変な心根はこれっぽっちもありゃしません」

堅物の九幸(くさち)の変わり様に、ちょいとからかい半分、やっかみ半分。

鳩渓(きゅうけい)の言葉に
「私は、怒りますよ‥」っとムッとした顔の九幸(くさち)に、おなごが
「私のことで喧嘩なさっては困りますょ」っと出て行こうとしたが雨は一段と強くなる。

私も大人気ないと
「すまないね、謝りますんで許してくれんかのう、悪気はないのじゃが」
「‥‥」
「雨が止まぬなら傘などお貸ししようが、もう暫く様子をみてはいかがでしょう」
おなごは軽く唇を小さく噤むと紅き口端が愛想笑いにもみえた。



鳩渓(きゅうけい)と九幸(くさち)は雨が音する路をおなご越にみやっていると
「やまぬ雨はないももの、売り子泣かせの雨乃滴ですなぁ」
「まだまだ止みそうにないですなぁ、我々閑人には酒でも貰ってぇ‥」
「いよーっ越後やぁ、お大尽、おい主人(おやじ)升をふたつ、いやみっつもらおうか。それから鰻(うの字)の白焼きもかるく炙っておくれ」

当時の鰻はぶつ切りの串にさして炙り垂れで食していたそうであるが、ここでは鰻をひらき串を打つという今様なものであります。

「ただ酒に鰻かい困った奴だぁ、こんなに陽気な九幸(やつ)をみたことねぇ」
九幸(くさち)は酒には弱く、酒巡りてはややほろ酔い加減 口もまわればくどくなる。

「昔の事はくよくよせずに、先の事も悩まねば、ほど良く飲みて又食べ」
私も続けて
「其の後っ‥、食いつけねぇものは避けてぇ、薬に頼らず、欲に惑わされぬ、とにかく良く遊びて学べっとくる あんたの口癖だね」
「そうそう、七つの戒ってこと‥ヒック」

「ところでそこな方、失礼だが、酔ったついでとはなんだが、お名前を聴いてもよかろうか ヒック」
「‥‥」
「失敬、わし等は怪しいものでないぞぅ、そちらが鳩渓(きゅうけい)先生といって蘭学の大家、拙者が医者の‥今付けたのだが く・九幸(くさち)と申すが…ヒック」

おなごはサッと顔色が変わる。
「鳩渓先生と申されますと、もしかすると平賀の源内さまでございますか」
「おっとと、知っていなさいますか、世の中狭い。じゃあこの酔払いをご存知かな?」
「えー、ただいまご紹介にあずかりましたぁ九幸(くさち)こと、玄白と申す。ヒック」
「私は ウキと申します。まさかこの様な処で御逢いできるとは思いもしませんでした」
「ほう、世は狭い、わしらも顔が売れてきたぞ、のう」
「なにか訳がありそうだが」
「父が所持しております家宝に‥エレキテルなるものがご在まして、さる偉い方より拝領しましたが動かないのでございます」

なんと、エレキテルだと、噺がとたんにおかしな方向へと進んで参りますなぁ

「うーん、エレキテルとは、確か和蘭本で図を見たある気がするがぁ」
「なんじぁ、そのエレキテルテルとは、食べたことはないぞ ヒック」

-玄白は後に腑分け本にて一名をなすのでありますが酔ってはだらしない-

「源内さまに一度診ていただきたく願っておりました」
「私もいろいろ忙しいが、そのエレキテルには気をそそられる。その物は確か徳川さまの所持品ではなかったかと記憶しているがなぁ」
「それはこの口からは申し上げられません」
「まあそんな事は良いとして、ここに私の居場所を書いておくから届けておきなさいなぁ」
懐から和紙と筆を出すと、サラサラと鰻の如く書き連ねてはおなごに手渡した。


とっ、脇を見ると玄白こと九幸(くさち)が眼を丸くしておなごをまじまじとみている。
「どうしたい?九幸さん」
「えっ、そのう、ウキさんとやら、あんたの髪の間に黒いものが二本あるようだがぁ」
私もその異様なものが気にはなっていたが、問うのもおかしいとはばかっていた。

ウキは慌てて手拭を被り、
「簪ですよ」と答えた。

戸口の外の雨はピタリと止んでいる。

「じゃあ、雨も上がったようだし、先生方また御逢いしましょう。源内さま後でエレキテルを診てもらいに伺いますよ、よろしくお願いしますぅ」
ウキというおなごは、しなをつくり軽く会釈すると、我々二人を残して表に駆け出していったのである。

二人とも口をあけたまま浴衣の女を見送って顔を見合わせた。
「見たかい、今のは簪(かんざし)かい? 角(ツノ)じゃねぇのかい」
「ああ、確かに見ましたよ、鳩渓(きゅうけい)さん、黒い艶のある角でした‥」
「もしかして 鬼なんて事はありはしないよなぁ」
「ウキっていいましたね、雨と鬼でウキ(雨鬼)ってことかい」

さてはエレキテルに雷神、雨鬼(うき)とは得てして面白い。

「俄雨に出逢う艶っぽい女は気をつけなくちゃあいけねぇなぁ」
「左様で‥」
改めて源内と玄白はふたりで見合うと大笑いした。



何年かのちエレキテルのおなごは、源内の許に再び現れたという。当然の如く角は無かったのだが、エレキテルを渡すと二度と源内の前には現れなかった。それを直した源内はたちまち江戸中の評判となったという。

ところで、あの鰻屋で勘定がおわり店の主人(あるじ)にあまりにも客が少なかったのを按じて、「本日土用丑の日」と張り紙をださせたとある。何故かその店は江戸の庶民の注目をあびて鰻の売れ行きが上がったのである。又、源内はこの後に号を福内鬼外(ふくうちきがい)としたともあるが‥‥。


了   





九六

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『奇妙な落款』(6)

『奇妙な落款』(6)


突然、野良犬が唸るような声がした。

しかし背後から聞えたのは低い男の息づかいと喚くような言争いだとわかった。
「やめてくれぇ」
「ゔぅ~ぐぁ」
しかしもうひとつは声ともならない唸り声なのだ、
点滅する光線の闇に眼を凝らしてみると姿恰好から古本屋の主人なのだが、もう片方はストロボ効果のせいか獣たのように三日月に裂けた口、その口中に複数の牙のようなものが異様にひかり、乱反射してみえた。
また主人が叫ぶ
「なっ、やめろ!!」

もの凄く素早い動きなのか、影だけが俊敏に位置を変えている。。
ただこの気配は…あの男のものなのだ。
いま路地の隙間に何かがいる…

おもわず私は片方の靴をぬぎさると、塀の隙間の闇におもいっきり投げこんだ。
靴は当たったような音もなく、ただなにもない闇の空間に黄金の眼のようなものがこちらを窺っている。
もうひとつの靴を持ち替えて身構えた。

ここはまだ未舗装なので、ときおり風が渦まくように土が舞い上げる。
土煙が近づいたと気づいた瞬間、
私に体ごと覆うように主人が抱きついてきた。

「やめろ!離せ、何をする気だ」
あとから考えると私を自らの体で庇ったのだろう。しかしその時は恐怖で混乱していた。
もがき手で相手の首を押返した
すると
「こ・これを持っていろ」
わたしの胸に風呂敷包みを無理矢理おし付けると、両腕で抱きしめるように交差させた。

「こんな時になにを血迷っているんだ!あいつの眼をみただろう」
「…もうすぐ止む、そのままじっとしていればな」
 
街灯の電球がいつの間にかきれたのだろう。
路地の暗闇にだまったまま寄りかかるように立ち尽くしていた。

闇が揺らめくと、浪が寄せては引くような気配だけがする。
そしてふたりの前後を、まるでマントが風を切り裂いてはためく音が遠のき、風の音だけになった。

だが風下にいる我々の辺りには、あの男の吐き出す醜悪な息とゼイゼイと喉を擦る微音がまだ聴こえているようだ。


「もう離せ!あの男が襲いかかろうとしたんだぞ」
「いいや…恐怖のあまりそう見えたんだ」
「なんであの男が俺を襲うんだぁ、理由を教えてくれ!!」
「ああ、解った…」
黙ったまま手を解くと疲れ果てたように崩れた。

「とにかく、そこの居酒屋へいこう」
店主は再び傷口がひらいたのか呻いた。


【つづく】九六
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Author:九六
好きなものを自由に書く、読む、観る、描く。そして遊び愉しむ。
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【※】-半世紀分の散らばした気侭綴ゑ-

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